石灯籠

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吾祖との

   石灯籠冬

    王仁偲ぶ

 金達寿さんは、『日本の中の朝鮮文化〈紀伊伊勢〉』のなかで、『有田郡誌』という古い書に、有田郡の有田は、有田の字を用いることになったのは明治以後のことで、もとは荒田であったということが書かれている。では、荒田とはどういうことであったろうか。これは決して、荒れた田、といったことからきたものではなかったはずである。松本清張氏は神田ということについて、これのもとは刈田(かりた)、韓田(かんだ)ではなかったかと書いているが、荒田、荒木などというのももとは安羅田、安羅来といったことからきたものではなかったかと思うと書いています。

 そして、酒造業を営む旧家の平松家を訪問して、「吾祖高志 明治四十二年秋合 合祀記念」と刻された石灯籠を確認しています。その情報をもとに、平松家を訪問してみますと、こころよく、その石灯籠を見せてくれました。そこには「吾祖高志氏之臣」と刻されていて、その横にやや小さく「明治四十二年秋合 合祀記念」とありました。

 金達寿さんは、読んで字のごとく、平松家の祖は高志氏である、とおっしゃっていますが、「高志氏の臣」とは、高志氏の家来とも解釈できるのではないだろうかという気持になってしまいました。子孫であっても、家来の子孫であっても、王仁博士由縁の子孫であることに変わりはないと思い、ご当主と、製造酒の「金葵」と「宗祇誉」を手に記念撮影をしました。

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このページは、KSYが2010年4月17日 23:51に書いたブログ記事です。

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