2010年5月アーカイブ

金容海先生の千字文講座はいかがでしたでしょうか。
大変よい勉強になったとおっしゃってくれる方が多く、私としても本当に嬉しく思っております。
さて、第4回講座を次の通り行いますので、前回同様、お友達をお誘いの上、お越しくださいますようよろしくお願い申し上げます。
 

 
日時:〔4回目〕2010年5月28日(金) 午後 6:00~8:00
場所:〒543-0023
大阪府大阪市天王寺区味原町13-9
サンエイ下味原第2ビル 6階

受講料 1,000円(テキスト料金含む)
 
〔連絡先〕 姜信英 kang@korea-japan.info

金容海先生の千字文講座はいかがでしたでしょうか。
大変よい勉強になったとおっしゃってくれる方が多く、私としても本当に嬉しく思っております。
さて、第3回講座を次の通り行いますので、前回同様、お友達をお誘いの上、お越しくださいますようよろしくお願い申し上げます。
 

 
日時:〔3回目〕2010年5月21日(金) 午後 6:00~8:00
場所:〒543-0023
大阪府大阪市天王寺区味原町13-9
サンエイ下味原第2ビル 6階

受講料 1,000円(テキスト料金含む)
 
〔連絡先〕 姜信英 kang@korea-japan.info

HP-201005 有田焼き.jpg

金容海先生の千字文講座はいかがでしたでしょうか。
大変よい勉強になったとおっしゃってくれる方が多く、私としても本当に嬉しく思っております。
さて、第2回講座を次の通り行いますので、前回同様、お友達をお誘いの上、お越しくださいますようよろしくお願い申し上げます。
 

 
日時:〔2回目〕2010年5月14日(金) 午後 6:00~8:00
場所:〒543-0023
大阪府大阪市天王寺区味原町13-9
サンエイ下味原第2ビル 6階

受講料 1,000円(テキスト料金含む)
 
〔連絡先〕 姜信英 kang@korea-japan.info

〔6日目〕 5月12日(水) 上田正昭先生、井上満郎先生
 午前7時、眠たい目をこすりながら布施駅を出発し、亀岡駅に向かいました。着いたのは10時前で、MBCのスタッフに迎えにきてもらいました。上田先生には王仁博士に関する『王仁伝承の虚実』という論文があり、上田正昭の自宅に訪問して王仁博士について聞こうというプランでした。併せて蔵書の懐風藻と古今和歌集の王仁に関する部分をビデオカメラに収めようという算段でした。上田先生のお話は次の通りでした。
 紀貫之の古今和歌集の仮名序に「難波津の歌」と「あさかの歌」の二つが手習いの歌として載っている。7世紀から8世紀の木簡に「難波津の歌」が書いてあり、42点出土しているから、多くの人に親しまれていたということがわかる。王仁博士は日本における学問のもとを築いた人だ。
 応神天皇の時代に論語と千字文を持ってきた。河内の文氏という子孫が存在し、活動しているから実在は疑いようがない。論語を持ってきたのは確かだが、千字文ができたのは梁の時代だから、王仁博士の時代には存在していないから、江戸時代から論争の種になっている。
 現代の多くの人は王仁博士のことを知らないが、大阪で難波津の歌のハングル歌碑ができ、木簡の難波津の歌、日本のかたかなを並べている。これは大変有意義な事業で、王仁博士のことをしっかり学ぶことが、日本と韓国の善隣友好に大きく寄与すると思う。
 百済の子孫たちが日本に渡ってきて大きな影響を与えたことは、王仁博士のみならず、法隆寺釈迦三尊像を造った鞍作止利の先祖は百済人だし、百済から渡ってき観勒、慧聡いうお坊さんは聖徳太子に大きな影響を与えた。絵画でも大和漢氏という人たちがいる。東大寺大仏を実際に造ったのは百済からわたってきた国骨富という人の孫、国中公麻呂だし、行基も父母も百済から渡ってきた人だ。飛鳥時代や天平時代の文化を論じるうえで百済から渡ってきた人たちの存在を抜きにして論ずるわけにはいかない。「桓武天皇は、百済武寧王の子孫である」ということも『続日本紀』に書いてあり。陛下はそれを私の『帰化人』という本を見て知っておられた。
 上田先生の取材を終えての帰り、桓武天皇の生母で、その先祖は百済武寧王の子淳陀太子という高野新笠(たかのにいがさ)姫の陵墓にお参りする予定でしたが、寒い日でしたので見送りました。京都大学に留学しているアンさんの案内で、京都大学百万遍校舎の食堂で昼食をとった後、銀閣寺などを見学して、所定時間の5時に京都駅前のNHK文化センターで、京都産業大学教授の井上満郎を取材しました。井上先生のお話は次の通りでした。
 王仁博士は、論語と千字文を伝え、非常に大きな役割はたした人物だ。王仁博士の渡来がなければ日本の文化は100年単位で遅れていただろう。王仁という表記がいろいろあるが、ワニと呼ばれた人が漢字で表記されると、いろいろな表記になる。違う表記はそんなに気にすることはない。「難波津の歌」は王仁博士が創製したのではないだろう。その頃には5・7・5・7・7という形式はなかったからだ。
 韓半島からの渡来人という形の研究は30年くらい前からで、上田先生らがその先駆けだ。王仁博士の資料はそんなに多いとはいえないが、私自身は王仁博士を含めた渡来人の研究を進めたいと思うし、広い国際的に背景のなかで歴史をきざんで行ったという点でも、また日韓の友好、交流を推進する上でも、王仁博士を研究することは非常に重要だ。王仁博士の背後、周囲には多くの渡来人がいるということを忘れてはならない。
 王仁博士の子孫は多く繁栄したが、王仁博士の子孫という人はいない。苗字を持つようになったのは百何十年か前で、それまでは苗字はなかった。だから、系図を王仁博士の頃まで溯れない。百済王氏の子孫という人に会ったことはあり、家系図が残されていて、それを見たことはある。新撰姓氏録からの計算すると、日本人の30パーセント、3人に1人が渡来人のDNAを持っている。
 井上先生の取材を終えて、全日程が無事終了しました。そこで、ささやかな打ち上げパーティーをしようということになり、アンさんが留学生仲間とよく利用するという四条木屋町の居酒屋和民にもぐりこみました。
 ペクさんたちから、「姜さんの案内で、無事に終わって、ありがとう」と感謝されたときは、本当に嬉しく思い、熱燗のお酒もおいしく味わいました。

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上田先生を囲んで

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井上先生を囲んで

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打ち上げ会

 〔5日目〕 5月11日(火)  飛鳥戸神社、西琳寺
 羽曳野市飛鳥にある飛鳥戸神社を地元の仲村要司さんに案内していただきました。飛鳥戸神社は百済武寧王の父とされる昆伎王を祭る神社です。飛鳥大神と称される地主神です。仲村さんは、次のように話されました。
 鳥居からこっちが宮地で10ヘクタールぐらいの社地だったが、今は村人の住宅になっている。昆伎王を祀る神社であったが、明治時代に壷井八幡宮に預けられ、素戔鳴尊を祭るになった。その後、昭和になって元に戻した。10月には祭礼があり、壷井八幡宮の宮司に来てもらう。月の初めにはお参りする。
 村民のなかには渡来人の子孫という意識を持つ人もおり、隣村には真銅とか金銅とかの渡来系の名前も多い。顔かたちも似ているから、親近感があるのは当然だ。私は現在、羽曳野市役所を定年退職し、ブドウ園を経営している。そうした土地を残してくれた先祖に感謝している。
 仲村さんが経営しているというブドウ園を見学することになりました。途中、飛鳥ワインの製造工場を訪れ、1500円の白ワインを買い求めました。ここらは、いにしえは「飛鳥」と呼ばれた地域で、奈良の飛鳥以前に栄えた地です。奈良の飛鳥が生じたため、「近つ飛鳥」と呼ばれ、奈良は「遠つ飛鳥」と呼ばれました。飛鳥ワインは奈良の産ではなく、河内の産です。
 風香るブドウ園で、風を受けていますと、「飛鳥戸郡の人田辺史伯孫の女は古市郡の人である書首加竜の妻である。伯孫は女が男の子を生んだと聞いて、婿の家へお祝いに行き月夜に帰ってきた」という『日本書紀』の記事が思い出されました。関晃著の『帰化人』に「田辺史が実質的には帰化人であることは間違いないであろう」とあります。田辺史(たなべのふひと)も書首(ふみのおびと)も渡来人ですから、渡来人の名族同士が結婚していたことがわかります。書首(ふみのおびと)は王仁博士を始祖としていますから、王仁博士の子孫がこの地でも繁栄していたのでしょう。この地の人たちは、王仁博士のDNAを持っているかも知れないと思うと、無性に愛しく感じてしまいました。
 昼食をとった後、誉田八幡宮と隣接する応神陵を散策することになりました。私は疲れて車の中で待機しましたが、応神帝は、王仁博士であり、辰王であるという話を、『博士王仁の実像』の著者である韓登先生からしばしば聞いていますので、定説とはるかにかけ離れた説ではありますが、応神帝がイササワケノミコト(天日槍)と名前を交換したこと、ウジワカイラッコがアマノヒボコ(天日槍)に通じる血族であるという話などを参考にしますと、あるいはそうかもしれないと思うようになりました。
 その後、西琳寺を散策しました。かつては巨大な寺院だっといわれる西琳寺。その地一帯を支配したであろう王仁博士の子孫、西文氏(かわちのふみし)の氏寺としその栄華を誇ったのでしょう。その遺跡が、日本一大きな礎石で、百済式伽藍の礎石だといわれています。MBCのスタッフは、その礎石を、ビデオカメラに収めていました。

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採りたてのえんどう豆と仲村要司さん(右)

(뽑은지 얼마 안 된 완두콩과 나카무라씨 (오른쪽)

 

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飛鳥集落を案内する仲村要司さん

(아스카촌락을 안내하는 나카무라씨)

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近つ飛鳥の丘陵から飛鳥戸神社を探す

(치카쓰아스카의 구릉으로부터 아스카베신사를 찾는다 )

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飛鳥戸神社の鳥居の前で

(아스카베신사사의 토리이 앞에서)

〔4日目〕5月10日(月) 兵庫県たつの市八瀬家、堺市家原寺・土塔
 午前9時に鶴橋を出発し、高速道路をかなりのスピードで走って、どうやら所定の時間にたつの市に着きました。ところが、八瀬家の電話番号ではナビにセットできず、右往左往する有様で、八瀬家に何回も電話して最後は住所を教えてもらい、その住所をナビにセットしてやっと着くことができました。
 八瀬家は龍野市指定文化財に指定されている旧家で、重々しい佇まいでしたが、ご主人の八瀬正寿さんご夫婦が気さくな方で、暖かく迎えてくれ、茶菓子までご用意してくれました。「難波津の歌」のハングル墨書をはじめて世に紹介された故辛基洙先生のことが話題になり、八瀬家と辛基洙先生の交友の深さがうかがい知れました。
 八瀬家はかつて43ヶ村の大庄屋でしたから、古文書がいっぱいあって、父が亡くなった時、かたっぱしから古文書を燃やして整理しました。ハングル墨書もその一つでしたが、開いてみると達筆な書で、燃やすのを惜しみ、元に戻しました。それが故辛基洙さんの見るところとなり、世に出ることになったということでした。
 藤原惺窩が幼少を過ごしたお寺があるそうで、姜沆を研究している私にとっては興味を引かれる場所でした。ジュウレンジというそうで、今は廃寺ですだが、記念碑があるそうです。惺窩は藤原定家の子孫で、辛先生が最初に見えたのは、そこに行きたいということだったそうで、その地は戦前、子供会が掃除をしたりしていたそうですが、戦後はどういうわけかしなくなり、住宅がいっぱい建ち並び、その間を縫って案内したしたそうです。その時にハングル墨書を見せたそうです。
 八瀬家はもともと多田と名乗り、多田源氏、源頼政の子孫ですが、応仁の乱で敗れ、京都からここに移り住んだそうです。家紋は左卍で、ご主人の代で35代目だそうです。長刀(なぎなた)とか刀とかがいっぱいあり、NHKなども大きなカメラを持ってきて取材したそうですが、放映されたあと、あちこちから電話があり、変な様相の人らが家の周りをうろうろして、3日ぐらい家から出られなかったといいます。そのうち警察からも危険物として警告され、その処置に困ったそうです。現在は屏風など貴重なものは市に預け、管理してもらっているそうです。
 ご主人は狩猟が好きで、鉄砲の振動で最近は耳が遠くなったそうですが、辛先生が鹿とか猪の肉が好きで、時たまに送ったそうです。私もいただいてしまいました。でも、どうして、ハングル墨書が八瀬家に残っているのでしょうか。そのいきさつを是非とも知りたいと思いましたが、知るのは非常に困難なような気がしました。
 ふたたび、高速道路を走り、堺に向かいました。家原寺に着くと、雨のなか、韓国民団堺支部の呉時宗団長が案内してくれました。入ってすぐ、王仁博士の子孫である行基菩薩の銅像が建っています。傘をさしながら、行基が生まれた家原寺を回りました。
 天智帝が近江の大津宮で即位した668年に、行基は河内国大鳥郡(大阪府堺市)で、父は高志才智、母は蜂田古爾比売との間に生まれたといわれています。15歳で薬師寺に入り法相宗の経典を修め、師匠の道昭とともに全国をめぐりました。いたるところで民衆の困窮を見たのでしょうか、多くのお寺を建て、救済施設の布施屋も建てました。橋も架け、港も造り、お墓も造ったということです。家原寺の近くには百済川という川もあります。その後、聖武帝の強い要請によって、大仏建立に大きな役割を果たしました。
 家原寺を出て、行基が築いた土塔を散策しました。土塔の整備事業が完了したようです。雨が強くなり、寒さを伴うなか、ジャンバーを羽織って、土塔をめぐりました。寒さに体が震えました。
 土塔は、瓦を一枚一枚積み上げて、ピラミッドのように造り上げています。その瓦一枚一枚に、その瓦を寄贈した民衆の名前が刻まれているということが、出土した瓦から分かりました。土塔の人名瓦として世に有名になりました。土塔は、一辺が54メートル余の土山で、方形の古墳と見る学者もいましたが、実は大野寺の塔婆(供養追善のため墓に立てる、上部を塔形にした細長い板。梵字・経文・戒名などを記す。板塔婆)として築かれたものでした。民衆とともに活動した行基の土のにおいのする貴重な遺跡だといわれています。

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代々伝わる多田源氏の陣笠を見せる八瀬家当主の八瀬正寿さん

(대대고 전해오는 다다겐지의 진립을 보여주는 야세가 당주의 야세 마사히사씨 )

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八瀬家の奥さん(야세가의 부인)


 


〔3日目〕5月9日(日) 御幸森天神宮「難波津の歌ハングル歌碑」、東高津宮「王仁神社」、高津宮
 「難波津の歌ハングル歌碑」がある御幸森天神宮を訪問しました。和歌に造詣が深く、短歌集も出版されている森田眞臣宮司に「難波津の歌」を朗詠していただきました。その後に、私も韓国語に翻訳した「難波津の歌」を韓国語で詠みました。
 森田宮司は、「難波津の歌」の歌碑が建立されたのを記念して、紅梅と白梅を歌碑の横にそれぞれ植えたそうです。「さくやこの花」が梅の花だから、歌碑の意に合う梅の花を添えたということです。数年後には匂いもふくよかな紅白の梅が満開になることでしょう。
 東高津宮は大阪市天王寺区東高津町に鎮座し、摂社に王仁神社があります。笠谷義弘宮司からお話がお聞きできたのは幸いでした。王仁神社には王仁博士の木像が祭られているということで、11月の祭日の日にしか見せないが、特別な計らいで見ることができました。その特別な計らいにMBCのスタッフも大喜びで、ビデオカメラに収めていました。
 当宮は祭神が仁徳天皇で、その仁徳天皇を教えたのが王仁博士であり、王仁博士を学問の神様として祭っている。論語と千字文を持ってきて、全国に普及し、日本人に大きな影響を与えた。
 1600年前の仁徳天皇の時代は、桃の木とか梅の木がたくさんあって、神社はもともと今の近鉄上六駅あたりあった。社務所の前に貼ってある地図がそれを示している。仁徳の皇居は何処かということで、明治時代に大論争になったが、結局は高津高校のあたりを皇居跡と決め、校庭に碑が建てて決着させてしまった。しかし、私どもはやはり、近鉄百貨店があるそこらあたりにあったと信じている。昔はここらは入海だったから、人家などあるはずはない。
 大阪の空襲でこの神社も焼けた。王仁博士が詠まれた「難波津に咲くやこの花」の歌碑も焼けてもろくなった。再建するときに仁徳天皇と磐之姫を一緒に祭り、摂社は稲荷社のみだったが、摂社である王仁神社の再建の機会を待った。今上陛下(平成天皇)が即位されたとき、その記念として王仁神社を復興し、記念誌も作成した。王仁博士のお祭りや行列があるなら、当宮を出発地にするのがふさわしいと思う。
 この後、高津宮を訪れました。大阪市歌の石碑があって、その歌の三番目に「さくやこの花」の章句があります。

 


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 御幸森天神宮の森田宮司(미유키모리신사의모리타궁사와)

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摂社の王仁神社を再建した東高津宮の笠谷義弘宮司(左)(세쓰(攝)사의 왕인신사를 재건한 히가시고우즈큐의 가사타니요시히로 궁사 )

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〔2日目〕5月8日(土) 和歌山県有田郡有田川町
 鶴橋を9時過ぎに出発して、一路、和歌山へ向かいました。高速道路を快走すること一時間半、藤並神社に到着しました。約束してあった宮司さんに案内してもらい、お祓いまで受けました。また若い宮司さんで、合祀されている高志神社(祭神王仁博士)のことに関しては何も知らない様子でしたが、高志神社について尋ねる人がいるので、これからいろいろ勉強していきたいと意欲的でした。
 有田川町教育委員会の川口修実学芸員を午後1時に尋ねました。そこには王仁博士の子孫とみなされている酒造業平松本家のご主人が来ておられました。以前はお宅の方でお会いできましたが、高齢の母親が病気で、自宅には案内できない由でした。
 ご主人は、王仁博士の直接の子孫ではなく、王仁博士に随伴してきた者の子孫だろうということでした。ペクさんは、「王仁博士の子孫という史的証拠は存在するのか」「地元にはどのような伝承が存在するのか」「王仁博士の子孫ということで先祖代々どのような生活意識をもっていたのか」などを質問しましたが、明確な答えはなかったようです。
 ご主人と川口さんのお話から、藤並神社に合祀された高志神社の跡地がそのまま残されているということでした。現在は荒れ放題でゴミ捨て場のようになているということでしたが、その山の地主は平松本家のご主人で、宮山と称し、前に宮池、その向こうには寺池というのもあるということでした。その跡地に案内していただくことになりました。戦前に子供が書いたという高志神社の全体絵は、立派な神社であったことを思い起こさせます。
 若い宮司さんのご好意で、その近くに栗栖という王仁博士の子孫の家があって、話をしてくれるということになりました。ほかに平木という米屋さんの家も王仁博士の子孫ということでした。﨑山という姓の家もそうらしいということでした。
 栗栖さんのご主人の話では、栗栖家には二つの流れがあって、父も母も栗栖姓だが、父は王仁博士の流れ、母はわからないということでした。王仁博士の子孫は、堺の高石に着いて、こっち(有田)へ着たと聞いているそうです。吉備の町史に栗栖のことが少し載っているということでした。
 ミカンの木の間を通りながら、ここに鳥居があって、これが宮池、と説明されながら、案内された高志神社の跡地は、確かに荒れ放題で、クモの巣を掻き分け木の枝を払いながら散策しました。かすかに見え隠れする石垣が唯一の遺構だそうです。
 宮池の堤防から見下ろす有田の町は、低い所に人家があって、昔は有田川の砂州、河川敷だったのでしょう。人が住む地域は、この高地に位置する宮池の周囲のような気がしました。今は人家が見当たりませんが。
 川口さんから『阿弥陀寺縁起』という古文書を見せてもらいました。そこに王仁博士の子孫のことが記されいました。全文漢字ですが、行基が阿弥陀寺をつくり、明恵が修業した由緒ある寺であるということを証明するため、天文七年(1538)に作られ、江戸時代に書き写され、紀州藩の寺社奉行に提出されたものだそうです。
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平松本家のご主人(히라마쓰 혼케의 주인 )

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有田川町教育委員会の川口修実学芸員( 아리다가와쵸 교육위원회의 가와구치 오사무 학예원)

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藤並神社の堀宮司と(후지나미신사의호리궁사와)
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堀宮司を囲んで (호리궁사와 함께)

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栗栖さん(구리스씨와)

 

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〔初日〕5月7日(金) 千字文講義
 初日は、古代ロマン塾が金容海先生を招いて開催する「千字文講義」でした。教室は鶴橋駅前のビルの一室で30人余りが集いました。主催者は私、姜信英ですから、MBCのスタッフの方々、ペク・ジェフン(プロデューサー)、イ・ギョンス(カメラマン)、アン・ジュンサン(通訳)の3人を紹介し、次のように挨拶しました。
 千字文の勉強を通じて、日本の基礎を築いた王仁博士の偉大さを再認識し、王仁博士を知ってもらうために活動したいと思います。あるとき、「王仁を知っていますか」と尋ねますと、「動物園にいるワニですか」と逆に尋ねられて困惑したことがあります。正しい歴史を学ぶ、それがあっての日韓親善だと思います。最後に「千字文 王仁が伝えし 宝なり 楽しく学び 広く広めん」という拙い短歌を紹介しました。
 金容海先生のお話は次のようなもので、「ハヌルチョン、タジ・・・」と朗詠する響きは声も透き通り実に美しいものでした。参加者の皆様も感激ひとしおのようでした。
 子供の頃に習った千字文が懐かしいし、習いたいという要望があって、1973年に1年間、手書きのテキストを作って教えたことがある。漢文教育は、千字文から始まり、まず読み、板に書くという調子で、七つの子供の朝から晩までの日課だった。
 千字文は子供を対象にした教科書で、字を覚えるためのものだ。千字文は中国の歴史を包含していて、宇宙から始まり、気象、王様の歴史、礼儀、道徳という内容になっていくが、体を前後に振ってリズムをとり、暗記していった。10日に1回試験があって、悪いと鞭、ポプラの木とか柳の木でふくらはぎをしばかれた。遊びの好きな子供には意味のわからない千字文を覚えることは苦痛だった。
 書堂で漢文の勉強を6年間したから、いまでも千字文を暗誦できる。千字文→啓蒙篇→童蒙先習→明心宝鑑→小学→論語→孟子→大学→中庸→史記→通鑑→春秋→礼記→周易の順で習う。書堂で千字文を勉強していたが、植民地時代だったから、学校へ行けということで、書堂の姿がなくなっていった。通名でなかったり、朝鮮語を使ったりすると先生からどつかれたし、告げ口されてどつかれる時もあった。
 現在使用されている「天地玄黄。宇宙洪荒」の千字文は、梁の時代の周興嗣が、武帝の命を受けて、王義之の書き残した書のなかから重複しない文字一千字を選び写しもの。その苦心のため周興嗣は頭髪が真白になったという伝説がある。
 しかし、これより以前に魏の鍾ヨウの千字文という別種のものがあり、王義之に奉ったという記録がある。その冒頭は「二儀日月。雲露厳霜」とあり、この王義之が書き残した千字文を周興嗣が次韻したということになる。日本書紀・応神紀によれば百済の王仁が論語と千字文を伝えるとあるが、この千字文は鍾ヨウの千字文であるとするのが通説である。


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金容海先生の千字文講座はいかがでしたでしょうか。
大変よい勉強になったとおっしゃってくれる方が多く、私としても本当に嬉しく思っております。
さて、第1回講座を次の通り行いますので、前回同様、お友達をお誘いの上、お越しくださいますようよろしくお願い申し上げます。
 

 
日時:〔1回目〕2010年5月7日(金) 午後 6:00~8:00
場所:〒543-0023
大阪府大阪市天王寺区味原町13-9
サンエイ下味原第2ビル 6階

受講料 1,000円(テキスト料金含む)
 
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爆発的ヒットの『チャングムの誓い』の制作会社である韓国光州MBCテレビ局が王仁博士の特集番組を組むため、日本の関連遺跡を取材したいから協力してほしいという連絡がありました。昨年秋、枚方市の伝王仁墓で開催された「王仁まつり」を韓国から取材にきていたペク・ジェフンさんからで、喜んで引き受けたことはいうまでもありません。
 取材日数は6日間ということでしたので、さっそく取材日程の原案をまとめ、ペクさんに送付しました。ほぼ原案通りに了承されましたので、来阪するのをお待ちしました。

アーカイブリスト

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