| | コメント(0) | トラックバック(0)

〔2日目〕5月8日(土) 和歌山県有田郡有田川町
 鶴橋を9時過ぎに出発して、一路、和歌山へ向かいました。高速道路を快走すること一時間半、藤並神社に到着しました。約束してあった宮司さんに案内してもらい、お祓いまで受けました。また若い宮司さんで、合祀されている高志神社(祭神王仁博士)のことに関しては何も知らない様子でしたが、高志神社について尋ねる人がいるので、これからいろいろ勉強していきたいと意欲的でした。
 有田川町教育委員会の川口修実学芸員を午後1時に尋ねました。そこには王仁博士の子孫とみなされている酒造業平松本家のご主人が来ておられました。以前はお宅の方でお会いできましたが、高齢の母親が病気で、自宅には案内できない由でした。
 ご主人は、王仁博士の直接の子孫ではなく、王仁博士に随伴してきた者の子孫だろうということでした。ペクさんは、「王仁博士の子孫という史的証拠は存在するのか」「地元にはどのような伝承が存在するのか」「王仁博士の子孫ということで先祖代々どのような生活意識をもっていたのか」などを質問しましたが、明確な答えはなかったようです。
 ご主人と川口さんのお話から、藤並神社に合祀された高志神社の跡地がそのまま残されているということでした。現在は荒れ放題でゴミ捨て場のようになているということでしたが、その山の地主は平松本家のご主人で、宮山と称し、前に宮池、その向こうには寺池というのもあるということでした。その跡地に案内していただくことになりました。戦前に子供が書いたという高志神社の全体絵は、立派な神社であったことを思い起こさせます。
 若い宮司さんのご好意で、その近くに栗栖という王仁博士の子孫の家があって、話をしてくれるということになりました。ほかに平木という米屋さんの家も王仁博士の子孫ということでした。﨑山という姓の家もそうらしいということでした。
 栗栖さんのご主人の話では、栗栖家には二つの流れがあって、父も母も栗栖姓だが、父は王仁博士の流れ、母はわからないということでした。王仁博士の子孫は、堺の高石に着いて、こっち(有田)へ着たと聞いているそうです。吉備の町史に栗栖のことが少し載っているということでした。
 ミカンの木の間を通りながら、ここに鳥居があって、これが宮池、と説明されながら、案内された高志神社の跡地は、確かに荒れ放題で、クモの巣を掻き分け木の枝を払いながら散策しました。かすかに見え隠れする石垣が唯一の遺構だそうです。
 宮池の堤防から見下ろす有田の町は、低い所に人家があって、昔は有田川の砂州、河川敷だったのでしょう。人が住む地域は、この高地に位置する宮池の周囲のような気がしました。今は人家が見当たりませんが。
 川口さんから『阿弥陀寺縁起』という古文書を見せてもらいました。そこに王仁博士の子孫のことが記されいました。全文漢字ですが、行基が阿弥陀寺をつくり、明恵が修業した由緒ある寺であるということを証明するため、天文七年(1538)に作られ、江戸時代に書き写され、紀州藩の寺社奉行に提出されたものだそうです。
DSC09871.jpg

平松本家のご主人(히라마쓰 혼케의 주인 )

DSC09865.jpg

有田川町教育委員会の川口修実学芸員( 아리다가와쵸 교육위원회의 가와구치 오사무 학예원)

-DSC09838.jpg

藤並神社の堀宮司と(후지나미신사의호리궁사와)
-DSC09846.jpg

堀宮司を囲んで (호리궁사와 함께)

  -DSC09925.jpg

栗栖さん(구리스씨와)

 

-DSC09942.jpg 

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧:

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://korea-japan.info/mt/mt-tb.cgi/62

コメントする

アーカイブリスト

2012年10月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
  • 444net
  • 444net

このブログ記事について

このページは、KSYが2010年5月 9日 04:11に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「MBCテレビ局「王仁特番」取材同行記〔初日〕」です。

次のブログ記事は「MBCテレビ局「王仁特番」取材同行記〔3日目〕」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。