王仁俳句

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 時下ますますご清祥の段お慶び申し上げます。突然のお知らせで失礼いたします。

 「古代ロマン塾」代表で王仁博士を研究しております姜信英(カン・シニョン)さんが来日10年目に念願の著書を出版しました。王仁博士と縁のある寺社を巡り、自らの感性に響いた俳句などを詠みながら、吟行文で歌い上げております。出版記念祝賀会では日本を代表する歴史学者、上田正昭先生(京都大学名誉教授・文学博士)の記念講演も開催させていただきます。

 この出版を機に姜信英さんは、さらに王仁博士を研究し、日韓親善に貢献したいと決意しておられます。以下の通り開催しますので、皆様お誘い合わせの上、多数のご参加をお待ちしております。

《後援》駐大阪大韓民国総領事館/大阪韓国商工会議所/学校法人白頭学院/大阪観光大学/メリック日本語学校/正修会日本本部/在日本関西韓国人連合会/韓国民団八尾支部/NPO法人国際友好促進会/呂英華韓国伝統舞踊院

◎祝賀会のスケジュール

【日時】2012年5月30日() pm6:009:00(途中参加も歓迎)

【場所】帝国ホテル大阪 3階 エンパイアルーム

【会費】8,000円(バイキング形式のテーブル席+著書本)

【演題】王仁博士の遺産

【講師】(基調講演) 上田正昭  京都大学名誉教授

【講演】中尾 清  大阪観光大学教授

【挨拶・講演】姜 英 (著者)・古代ロマン塾代表

《帝国ホテル大阪》

530-0042 大阪府大阪市北区 天満橋1-8-50

電話 06-6881-1111

<交通>桜ノ宮駅/JR大阪環状線桜ノ宮駅西出口より徒歩約5分、

JR東西線大阪天満宮駅より徒歩10分、JR大阪駅よりシャトルバス

 

〔連絡先〕 著者・姜信英(古代ロマン塾代表)

フェイスブックアドレス:http://fb.com/kang.shinyoung

携帯電話:08044357942

E mail: kang@korea-japan.info

FAX:06-6764-5956

王仁の魂

  今は宅地に

      迷う秋


 津氏の氏寺であったという善正寺(ぜんしょうじ)は、天武・持統帝の白鳳時代に建てられましたが、平安初期に全焼し、以後、廃寺となったそうです。近鉄藤井寺駅でおり、左手に仲哀陵をみて、二〇分ほど歩くと野中寺に出ます。野中寺からさらに住宅街のバス道路を一〇分ほど登ると、羽曳山住宅前というバス停の交差点に出ます。その交差点を左に折れて、一〇メートルほど行くと、道路沿いに二枚の立て看板が目に入ります。一つは横長のアズキ色で、道路沿いの表には「寺山」の案内、歩道側の裏には「善正寺跡」の案内、もう一つは真四角の白色で屋根がついていて「埴生廃寺(善正寺)址」の案内がしてありました。

 「我らの祖である葛井・船・津の三氏の墓地は河内国丹比郡にある野中寺の南にあって寺山といい、子孫が代々守りつづけているが、最近、木こりが出入りして、木を伐採しているため、祖先の御霊がおちつけない状態である。どうか禁じてほしい」という上奏文が『続日本紀』に掲載されています。この上奏文を朝廷に出したのは、津氏の流れをくむ菅野真道で、延暦18年(799九)のことです。ということになれば、善正寺跡は、王仁一族の共同墓地ということになり、寺山と呼ばれていたことがわかります。その寺山の丘陵は、風水易による「吉(よ)き葬地」で、緑の墳丘が連なり、さぞかし壮麗であったろうと思われます。かつては埴生野と呼ばれていたその地も、宅地開発が急ピッチで進み、昔は木こりに荒らされた地は、今は宅建業者に荒らされ、王仁一族の霊は安寧の地もないということでしょうか。

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何語る

  隅田の鏡や

      彼岸花


 JR和歌山線隅田駅から歩いて五、六分の所に鎮座する隅田八幡宮は付近の名祠とされ、所蔵している人物画像鏡は国宝に指定され、銘文は、日本最古の金石文で、いろいろな史書に紹介されています。現在は東京博物館に収蔵されているということですが、「癸未年八月日十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、県開中費直、穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟」と刻され、「大王の御代の癸未の年八月、男弟王(いろどおう)が意柴沙加宮(忍坂宮 おしさかのみや)にいませしとき、斯麻(男弟王の臣)が大王の長寿を祈って、開中費直(河内直)と穢人の今州利の二人をつかわして、白上銅二〇〇旱をとってこの鏡をつくる」というものだそうです。

 銘文中の「斯麻」は百済武寧王(在位501~423年)、日十大王は仁賢帝、男弟王は継体帝、「開中費直」は「かむちのあたい」で、「河内直(かわちのあたい)」とされています。河内直(かわちのあたい)は、王仁博士を始祖とする河内の文氏の一族と見られていますが、『新撰姓氏録〈河内国諸蕃〉』に「河内連、百済国都慕王男、陰太貴首王より出づるもの也」とあります。都慕王は、高句麗の始祖・朱蒙(王)で、『三国史記〈百済本紀〉』冒頭に「百済の始祖は温祚王で かれの父親は鄒牟あるいは朱蒙という」とありますから、都慕の子の陰太貴首王は、百済の始祖・温祚王に比定できます。ということになりますと、河内直は温祚百済の宗主の血筋を引く家柄となり、王仁一族と百済王家は同一血族となりますが、婚姻か何か関係で結ばれていたのでしょうか。

 ところで、隅田八幡宮の由緒書には、神功皇后が三韓征討の帰途、このの地に休憩したので、応神帝のときにこの地に祠を建てた、記されていますが、金達寿さんは「こういった神社の〈由緒〉のあてにならないものであることはいうまでもない。しかしそれにしても、これなどは史実をまったく無視した、あまりにもひどいものといわなくてはならないであろう」と言っています。

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伽羅橋に

  王仁香残るや

     残暑かな


 日本で最も短いといわれる南海電鉄高師浜線は、羽衣駅、伽羅橋駅、高志浜駅の三つで、羽衣駅が始発ですから実際は二つの駅しかありません。残暑厳しいなか、その一つ目の伽羅橋駅でおりました。伽羅は、加羅諸国の加羅と同じだから、「から」と読むのだろうと思っていましたが、駅名には「きゃら」となっていました。

 その伽羅(きゃら)を辞書で引いてみますと、梵語の多伽羅(たがら)という語の略とされ、香木のなかでも最も珍重された〝香り〟の天然香料の沈香(じんこう)だということです。伽羅橋駅前にある「大雄寺由緒」の説明に、千貫橋とも伽羅橋とも呼び大雄寺門前にあたる橋(芦田川)であったといい、またある人が「この橋板が沈香という香木で鎧(よろい)千貫の価値があったという」とありました。伽羅橋駅前はその昔、大雄寺という寺の境内で、建立されたのは14世紀の南北朝ということです。

 金達寿さんは、「本町羽衣領の芦田川に架せる旧伽羅橋は、当時伽羅国人の日本を頼って来た者此の附近に居住し此の橋を造った事に依り、国名をそのまま橋の名称としたのである。同国人の居住は其の後、百済人移住帰化したものと同様、海運の便良き地を選んで卜定したのであろう」と紹介しています。であれば、伽羅は、加羅、つまり「から」と読んでしかるべきで、どうして「きゃら」になったのか、はなはだ不思議な現象ですね。

 伽羅人が渡来してきたことは公然の秘密のようなもので、隣接地が高師浜という地名であってみれば、伽羅人のなかに王仁博士の一族、子孫も含めて、居住していたのではないでしょうか。



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金葵

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王仁子孫

  造りし地酒

     抱く冬

済州島は韓国で唯一のミカン栽培地だが、そのミカンの親は有田ミカンです。その有田ミカンで有名な和歌山県有田郡有田川町で酒造業を営む平松本家のご主人は王仁博士の子孫であるという金達寿さんの著書を手がかりに、冬のある日、有田川町の平松本家を訪問しました。出てきたのは八〇を超すと思われる老婦人で、「王仁博士の子孫であるということが記されている石灯籠があると本に載っているのですが」と尋ねると、「えっ、ああ、ちょっと待ってくださいよ」ということで、しばらくして出てきたのは、五〇くらいのご主人でした。

 「金達寿さんという方が、ご主人に案内されて、王仁博士ゆかりの石灯籠を見せてもらったということですが・・・」「ああ、それは、先代のことです。私はよくわかりませんが、石灯籠はありますよ」といって、愛想良く案内してくれた。たしかに「吾祖高志之臣(あがそこしのおみ)」と刻されていました。高志神社が、藤並神社に合祀された際の記念に明治四十二年(1909)建立されたものでした。高志氏族の子孫である平松本家は町の旧家で、「金葵(きんあおい)」や「宗祇(そうぎほまれ)」というお酒の醸造元で知られ、高志氏は、王仁博士の子孫で、かの有名な行基菩薩を輩出しています。

 買い求めた「金葵」と「宗祇誉」を抱きしめて、王仁博士を偲び、ご主人と記念撮影をしました。子孫がお造りになったお酒の味は、まだ賞味していませんが、後の楽しみにして、いましばらくは封を切らずにおいておきます。


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吾祖との

   石灯籠冬

    王仁偲ぶ

 金達寿さんは、『日本の中の朝鮮文化〈紀伊伊勢〉』のなかで、『有田郡誌』という古い書に、有田郡の有田は、有田の字を用いることになったのは明治以後のことで、もとは荒田であったということが書かれている。では、荒田とはどういうことであったろうか。これは決して、荒れた田、といったことからきたものではなかったはずである。松本清張氏は神田ということについて、これのもとは刈田(かりた)、韓田(かんだ)ではなかったかと書いているが、荒田、荒木などというのももとは安羅田、安羅来といったことからきたものではなかったかと思うと書いています。

 そして、酒造業を営む旧家の平松家を訪問して、「吾祖高志 明治四十二年秋合 合祀記念」と刻された石灯籠を確認しています。その情報をもとに、平松家を訪問してみますと、こころよく、その石灯籠を見せてくれました。そこには「吾祖高志氏之臣」と刻されていて、その横にやや小さく「明治四十二年秋合 合祀記念」とありました。

 金達寿さんは、読んで字のごとく、平松家の祖は高志氏である、とおっしゃっていますが、「高志氏の臣」とは、高志氏の家来とも解釈できるのではないだろうかという気持になってしまいました。子孫であっても、家来の子孫であっても、王仁博士由縁の子孫であることに変わりはないと思い、ご当主と、製造酒の「金葵」と「宗祇誉」を手に記念撮影をしました。

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猪飼野の

  ハングル歌碑に

       初詣

 生野コリアタウンに鎮座する御幸森天神宮(大阪市生野区)に王仁博士由縁の「ハングル歌碑」が昨年十月三十一日に建立、除幕されて二ヶ月余りが経過し、初の新年を迎えました。

 地域の街おこしと生野区に新名所をいう合言葉をモットーに、日韓親善の歴史的なモニュメントとして熱い視線を浴びていると思うハングル歌碑は、新しい年を迎えて、どのような存在になっているのでしょうか。

 建立を進めてきた『王仁博士「難波津の歌」和文・ハングル歌碑建立委員会』の代表として、大いに気になったので、一月六日、初詣をしました。

 ハングル歌碑は、日本に論語や千字文(漢字)を伝えた王仁博士が、仁徳天皇(御幸森天神宮の祭神)の即位を祝し詠んだとされる「難波津の歌」をハングルで表記したもので、和文と万葉仮名が併記されています。

 御幸森天神宮の森田真臣宮司にお話をお聞きすることができたのは幸いでした。

 「初詣の時は、屋台店の蔭に隠れて、歌碑の存在に気づく人はいなかったが、建立以後、新聞を見たといって探しに来る人が多くなった。当神社の、またこの地域の新名所となりつつあることは確か。この地は、もともと百済との関係があって、文章だけがあったが、墨書や和歌、木簡という物証があってのハングル歌碑だから、非常に価値あるものではないかと思っている」

と話していました。

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猪飼野に

   ハングル歌碑ぞ

      王仁の秋

「難波津の歌」をハングルで書き表した墨書が、兵庫県たつの市の旧家に所蔵されていまして、対馬の通訳館が、江戸時代の朝鮮通信使に贈呈したものだと言われています。和文・ハングル歌碑は、日韓交流のすばらしいモニュメントになると信じております。また、そのハングル・和文歌碑を、仁徳天皇をお祭りしている猪飼野の御幸森(みゆきもり)天神宮に建立されましたことは、その地がコリアタウンに隣接していることを考えあわせますと、日韓親善がさらに増進し、日韓友好が永遠に続いていくものと信じて疑いません。また、この上ない喜びであります。

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身を正し

  冬百済門

    王仁拝す


 

 伝王仁塚は大阪府指定の史跡公園として整備されつつありますが、大阪日韓親善協会、2010年1月現在の会長は中川和雄元大阪府知事でですが、毎年11月3日の文化の日に、枚方市藤阪の伝王仁塚で「王仁まつり」を開催し、日本に千字文と論語を将来した王仁博士を慰霊しています。この慰霊祭には、王仁博士の出身地であるかつての百済の地、全羅南道霊巌郡から郡守ら、また地元から枚方市長や教育委員会の関係者らも参加することが恒例になっています。

 そうした関係で、伝王仁墓の区域に2006年10月14日、「百済門」が竣工しました。この百済門の造作には、在日韓国・朝鮮人を中心とする宝塚、京都、東京の三つ王仁ライオンズクラブが大きな募金をして貢献したと聞いています。本来なら、王仁博士は日本文化の偉大な功労者ですから、日本社会から厚志をもって遇されてもいいと思うのですが、なぜか、冷たい空気を感じます。

 王仁博士は、百済から渡来しましたが、その子孫は完全な日本人です。王仁博士にしてみれば、子供に捨てられた親のような心境ではないでしょうか。「論語」などによる人間修養を怠ると、心の美しさは失われ、美しい日本も失われると思います。そう思うと、百済門に立ち、身を正して、マフラーで北風をよけながら、こうした現実を王仁博士に報告せざるを得ませんでした。

徳偲び

 人びと集う

   王仁墓や


 1731年頃(江戸時代)、京都の儒学者・並川五一郎が、枚方市禁野の和田寺が所蔵する古記録を調べ、藤阪に王仁の墓があることを知り、その地を踏査して自然石の立石を発見、これを王仁博士の墓としました。以後、村人たちによる王仁博士を顕彰するための諸活動が続き、1938年に大阪府史跡13号に指定されました。JR学研都市線の長尾駅から「王仁公園」への案内板にそって20分ほど坂道を登ると王仁墓の石碑に遭遇しますが、王仁系氏族の祖といわれる王仁の墳墓であるかどうか、疑わしいものとみる説もあります。

 王仁一族の支族が枚方に居住し、その祖(王仁)の墳墓を築造し、祭祀したということも考えられますから、墓だけ枚方にあるという疑義は説得性がないように思います。というのも、東大寺の大仏造立に陸奥の国から黄金900両を寄進したことで知られる百済王敬福のゆかりの寺社が百済王神社、百済寺として枚方にその遺跡がありますが、その地がかつては船氏の邸宅であったといいますから、王仁の墓がその近くにあってもおかしくはないと思います。ちなみに、「王仁塚の環境を守る会」という団体が王仁墓の清掃に奉仕しています。

アーカイブリスト

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