王仁俳句: 2010年4月アーカイブ

王仁の魂

  今は宅地に

      迷う秋


 津氏の氏寺であったという善正寺(ぜんしょうじ)は、天武・持統帝の白鳳時代に建てられましたが、平安初期に全焼し、以後、廃寺となったそうです。近鉄藤井寺駅でおり、左手に仲哀陵をみて、二〇分ほど歩くと野中寺に出ます。野中寺からさらに住宅街のバス道路を一〇分ほど登ると、羽曳山住宅前というバス停の交差点に出ます。その交差点を左に折れて、一〇メートルほど行くと、道路沿いに二枚の立て看板が目に入ります。一つは横長のアズキ色で、道路沿いの表には「寺山」の案内、歩道側の裏には「善正寺跡」の案内、もう一つは真四角の白色で屋根がついていて「埴生廃寺(善正寺)址」の案内がしてありました。

 「我らの祖である葛井・船・津の三氏の墓地は河内国丹比郡にある野中寺の南にあって寺山といい、子孫が代々守りつづけているが、最近、木こりが出入りして、木を伐採しているため、祖先の御霊がおちつけない状態である。どうか禁じてほしい」という上奏文が『続日本紀』に掲載されています。この上奏文を朝廷に出したのは、津氏の流れをくむ菅野真道で、延暦18年(799九)のことです。ということになれば、善正寺跡は、王仁一族の共同墓地ということになり、寺山と呼ばれていたことがわかります。その寺山の丘陵は、風水易による「吉(よ)き葬地」で、緑の墳丘が連なり、さぞかし壮麗であったろうと思われます。かつては埴生野と呼ばれていたその地も、宅地開発が急ピッチで進み、昔は木こりに荒らされた地は、今は宅建業者に荒らされ、王仁一族の霊は安寧の地もないということでしょうか。

wanihaiku-0030.JPG

何語る

  隅田の鏡や

      彼岸花


 JR和歌山線隅田駅から歩いて五、六分の所に鎮座する隅田八幡宮は付近の名祠とされ、所蔵している人物画像鏡は国宝に指定され、銘文は、日本最古の金石文で、いろいろな史書に紹介されています。現在は東京博物館に収蔵されているということですが、「癸未年八月日十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、県開中費直、穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟」と刻され、「大王の御代の癸未の年八月、男弟王(いろどおう)が意柴沙加宮(忍坂宮 おしさかのみや)にいませしとき、斯麻(男弟王の臣)が大王の長寿を祈って、開中費直(河内直)と穢人の今州利の二人をつかわして、白上銅二〇〇旱をとってこの鏡をつくる」というものだそうです。

 銘文中の「斯麻」は百済武寧王(在位501~423年)、日十大王は仁賢帝、男弟王は継体帝、「開中費直」は「かむちのあたい」で、「河内直(かわちのあたい)」とされています。河内直(かわちのあたい)は、王仁博士を始祖とする河内の文氏の一族と見られていますが、『新撰姓氏録〈河内国諸蕃〉』に「河内連、百済国都慕王男、陰太貴首王より出づるもの也」とあります。都慕王は、高句麗の始祖・朱蒙(王)で、『三国史記〈百済本紀〉』冒頭に「百済の始祖は温祚王で かれの父親は鄒牟あるいは朱蒙という」とありますから、都慕の子の陰太貴首王は、百済の始祖・温祚王に比定できます。ということになりますと、河内直は温祚百済の宗主の血筋を引く家柄となり、王仁一族と百済王家は同一血族となりますが、婚姻か何か関係で結ばれていたのでしょうか。

 ところで、隅田八幡宮の由緒書には、神功皇后が三韓征討の帰途、このの地に休憩したので、応神帝のときにこの地に祠を建てた、記されていますが、金達寿さんは「こういった神社の〈由緒〉のあてにならないものであることはいうまでもない。しかしそれにしても、これなどは史実をまったく無視した、あまりにもひどいものといわなくてはならないであろう」と言っています。

wanihaiku-0029.JPG

伽羅橋に

  王仁香残るや

     残暑かな


 日本で最も短いといわれる南海電鉄高師浜線は、羽衣駅、伽羅橋駅、高志浜駅の三つで、羽衣駅が始発ですから実際は二つの駅しかありません。残暑厳しいなか、その一つ目の伽羅橋駅でおりました。伽羅は、加羅諸国の加羅と同じだから、「から」と読むのだろうと思っていましたが、駅名には「きゃら」となっていました。

 その伽羅(きゃら)を辞書で引いてみますと、梵語の多伽羅(たがら)という語の略とされ、香木のなかでも最も珍重された〝香り〟の天然香料の沈香(じんこう)だということです。伽羅橋駅前にある「大雄寺由緒」の説明に、千貫橋とも伽羅橋とも呼び大雄寺門前にあたる橋(芦田川)であったといい、またある人が「この橋板が沈香という香木で鎧(よろい)千貫の価値があったという」とありました。伽羅橋駅前はその昔、大雄寺という寺の境内で、建立されたのは14世紀の南北朝ということです。

 金達寿さんは、「本町羽衣領の芦田川に架せる旧伽羅橋は、当時伽羅国人の日本を頼って来た者此の附近に居住し此の橋を造った事に依り、国名をそのまま橋の名称としたのである。同国人の居住は其の後、百済人移住帰化したものと同様、海運の便良き地を選んで卜定したのであろう」と紹介しています。であれば、伽羅は、加羅、つまり「から」と読んでしかるべきで、どうして「きゃら」になったのか、はなはだ不思議な現象ですね。

 伽羅人が渡来してきたことは公然の秘密のようなもので、隣接地が高師浜という地名であってみれば、伽羅人のなかに王仁博士の一族、子孫も含めて、居住していたのではないでしょうか。



wanihaiku-0028.JPG

金葵

| | コメント(0) | トラックバック(0)

王仁子孫

  造りし地酒

     抱く冬

済州島は韓国で唯一のミカン栽培地だが、そのミカンの親は有田ミカンです。その有田ミカンで有名な和歌山県有田郡有田川町で酒造業を営む平松本家のご主人は王仁博士の子孫であるという金達寿さんの著書を手がかりに、冬のある日、有田川町の平松本家を訪問しました。出てきたのは八〇を超すと思われる老婦人で、「王仁博士の子孫であるということが記されている石灯籠があると本に載っているのですが」と尋ねると、「えっ、ああ、ちょっと待ってくださいよ」ということで、しばらくして出てきたのは、五〇くらいのご主人でした。

 「金達寿さんという方が、ご主人に案内されて、王仁博士ゆかりの石灯籠を見せてもらったということですが・・・」「ああ、それは、先代のことです。私はよくわかりませんが、石灯籠はありますよ」といって、愛想良く案内してくれた。たしかに「吾祖高志之臣(あがそこしのおみ)」と刻されていました。高志神社が、藤並神社に合祀された際の記念に明治四十二年(1909)建立されたものでした。高志氏族の子孫である平松本家は町の旧家で、「金葵(きんあおい)」や「宗祇(そうぎほまれ)」というお酒の醸造元で知られ、高志氏は、王仁博士の子孫で、かの有名な行基菩薩を輩出しています。

 買い求めた「金葵」と「宗祇誉」を抱きしめて、王仁博士を偲び、ご主人と記念撮影をしました。子孫がお造りになったお酒の味は、まだ賞味していませんが、後の楽しみにして、いましばらくは封を切らずにおいておきます。


wanihaiku-0027.JPG

吾祖との

   石灯籠冬

    王仁偲ぶ

 金達寿さんは、『日本の中の朝鮮文化〈紀伊伊勢〉』のなかで、『有田郡誌』という古い書に、有田郡の有田は、有田の字を用いることになったのは明治以後のことで、もとは荒田であったということが書かれている。では、荒田とはどういうことであったろうか。これは決して、荒れた田、といったことからきたものではなかったはずである。松本清張氏は神田ということについて、これのもとは刈田(かりた)、韓田(かんだ)ではなかったかと書いているが、荒田、荒木などというのももとは安羅田、安羅来といったことからきたものではなかったかと思うと書いています。

 そして、酒造業を営む旧家の平松家を訪問して、「吾祖高志 明治四十二年秋合 合祀記念」と刻された石灯籠を確認しています。その情報をもとに、平松家を訪問してみますと、こころよく、その石灯籠を見せてくれました。そこには「吾祖高志氏之臣」と刻されていて、その横にやや小さく「明治四十二年秋合 合祀記念」とありました。

 金達寿さんは、読んで字のごとく、平松家の祖は高志氏である、とおっしゃっていますが、「高志氏の臣」とは、高志氏の家来とも解釈できるのではないだろうかという気持になってしまいました。子孫であっても、家来の子孫であっても、王仁博士由縁の子孫であることに変わりはないと思い、ご当主と、製造酒の「金葵」と「宗祇誉」を手に記念撮影をしました。

wanihaiku-0026.JPG

猪飼野の

  ハングル歌碑に

       初詣

 生野コリアタウンに鎮座する御幸森天神宮(大阪市生野区)に王仁博士由縁の「ハングル歌碑」が昨年十月三十一日に建立、除幕されて二ヶ月余りが経過し、初の新年を迎えました。

 地域の街おこしと生野区に新名所をいう合言葉をモットーに、日韓親善の歴史的なモニュメントとして熱い視線を浴びていると思うハングル歌碑は、新しい年を迎えて、どのような存在になっているのでしょうか。

 建立を進めてきた『王仁博士「難波津の歌」和文・ハングル歌碑建立委員会』の代表として、大いに気になったので、一月六日、初詣をしました。

 ハングル歌碑は、日本に論語や千字文(漢字)を伝えた王仁博士が、仁徳天皇(御幸森天神宮の祭神)の即位を祝し詠んだとされる「難波津の歌」をハングルで表記したもので、和文と万葉仮名が併記されています。

 御幸森天神宮の森田真臣宮司にお話をお聞きすることができたのは幸いでした。

 「初詣の時は、屋台店の蔭に隠れて、歌碑の存在に気づく人はいなかったが、建立以後、新聞を見たといって探しに来る人が多くなった。当神社の、またこの地域の新名所となりつつあることは確か。この地は、もともと百済との関係があって、文章だけがあったが、墨書や和歌、木簡という物証があってのハングル歌碑だから、非常に価値あるものではないかと思っている」

と話していました。

wanihaiku-0025.JPG

猪飼野に

   ハングル歌碑ぞ

      王仁の秋

「難波津の歌」をハングルで書き表した墨書が、兵庫県たつの市の旧家に所蔵されていまして、対馬の通訳館が、江戸時代の朝鮮通信使に贈呈したものだと言われています。和文・ハングル歌碑は、日韓交流のすばらしいモニュメントになると信じております。また、そのハングル・和文歌碑を、仁徳天皇をお祭りしている猪飼野の御幸森(みゆきもり)天神宮に建立されましたことは、その地がコリアタウンに隣接していることを考えあわせますと、日韓親善がさらに増進し、日韓友好が永遠に続いていくものと信じて疑いません。また、この上ない喜びであります。

wanihaiku-0024.JPG

身を正し

  冬百済門

    王仁拝す


 

 伝王仁塚は大阪府指定の史跡公園として整備されつつありますが、大阪日韓親善協会、2010年1月現在の会長は中川和雄元大阪府知事でですが、毎年11月3日の文化の日に、枚方市藤阪の伝王仁塚で「王仁まつり」を開催し、日本に千字文と論語を将来した王仁博士を慰霊しています。この慰霊祭には、王仁博士の出身地であるかつての百済の地、全羅南道霊巌郡から郡守ら、また地元から枚方市長や教育委員会の関係者らも参加することが恒例になっています。

 そうした関係で、伝王仁墓の区域に2006年10月14日、「百済門」が竣工しました。この百済門の造作には、在日韓国・朝鮮人を中心とする宝塚、京都、東京の三つ王仁ライオンズクラブが大きな募金をして貢献したと聞いています。本来なら、王仁博士は日本文化の偉大な功労者ですから、日本社会から厚志をもって遇されてもいいと思うのですが、なぜか、冷たい空気を感じます。

 王仁博士は、百済から渡来しましたが、その子孫は完全な日本人です。王仁博士にしてみれば、子供に捨てられた親のような心境ではないでしょうか。「論語」などによる人間修養を怠ると、心の美しさは失われ、美しい日本も失われると思います。そう思うと、百済門に立ち、身を正して、マフラーで北風をよけながら、こうした現実を王仁博士に報告せざるを得ませんでした。

徳偲び

 人びと集う

   王仁墓や


 1731年頃(江戸時代)、京都の儒学者・並川五一郎が、枚方市禁野の和田寺が所蔵する古記録を調べ、藤阪に王仁の墓があることを知り、その地を踏査して自然石の立石を発見、これを王仁博士の墓としました。以後、村人たちによる王仁博士を顕彰するための諸活動が続き、1938年に大阪府史跡13号に指定されました。JR学研都市線の長尾駅から「王仁公園」への案内板にそって20分ほど坂道を登ると王仁墓の石碑に遭遇しますが、王仁系氏族の祖といわれる王仁の墳墓であるかどうか、疑わしいものとみる説もあります。

 王仁一族の支族が枚方に居住し、その祖(王仁)の墳墓を築造し、祭祀したということも考えられますから、墓だけ枚方にあるという疑義は説得性がないように思います。というのも、東大寺の大仏造立に陸奥の国から黄金900両を寄進したことで知られる百済王敬福のゆかりの寺社が百済王神社、百済寺として枚方にその遺跡がありますが、その地がかつては船氏の邸宅であったといいますから、王仁の墓がその近くにあってもおかしくはないと思います。ちなみに、「王仁塚の環境を守る会」という団体が王仁墓の清掃に奉仕しています。

王仁の村

   散策したし

        秋古代


 

奈良県天理市和爾町は、王仁の村と称されていて、住民たちは外地に引越しせず、外地から入っても来ず、純粋な血統を維持しているという村だそうです。村の入口には和爾下神社が鎮座しています。古代に栄えた和爾氏の部族がひろがっていた和爾の地は、かなり広い範囲であったといわれています。和爾氏はたびたび皇室の外戚となり、和爾氏に関する物語や歌は、古事記・日本書紀に、意外にたくさん散見している。そして万葉集で有名な柿本人麻呂の柿本氏は、この和爾氏の分れということです。この近くにある和爾池は推古二一年(六一三)に作られたといいますから、河内の方からこの地に入植した王仁一族が和爾池の造成に貢献し、その地を開拓したからこそ、「王仁の村」と呼ばれてきたのでしょうか。


wanihaiku-0021.JPG

王仁歌う

   花にちなむや

         此花区

 

 1925(大正14)に当時の北区および西区の一部の合区して誕生した此花区の名称は、王仁博士が詠んだ「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」という『難波津の歌』にちなんだものです。 その『難波津の歌』の和文・ハングル歌碑が、コリアタウンの御幸森天神宮に建立され、1031日に除幕式が行われました。その此花区から、1943(昭和18)福島区が分離して、西淀川区の伝法、高見地区を編入し、福島区が誕生しました。

 『難波津の歌』は紀貫之らが編さんした『古今和歌集』でそのように詠んだといわれています。『古今和歌集』は、歌としての形を整えた集大成の歌集と評価されています。つまり、和歌の基本が整えられ、中身も豊かになって、『万葉集』のような朴訥さがなくなったということです。

 

wanihaiku-0020.JPG

 八尾神社

    路地裏鎮座

         秋陽さす

 

 近鉄八尾駅で降りて、八尾神社を探したのですが、探し当てるのにやや骨がおれました。路地裏に鎮座しているからです。その近くに行基菩薩が開基したという寂光寺があって、そちらに目が奪われてしまいます。まるで民家の一角のような雰囲気の中に鎮座している八尾神社の入り口には、八尾市教育委員会が設置した新らしい石碑があって、「祭神は宇麻志麻治命で延喜式内社である」などと説明してありました。

 王仁博士の雰囲気が漂ってきませんでしたが、古記録によると、八尾神社はもと栗栖(くるす)神社と称していたが、明治43(1910)年に八尾神社と改称されたそうです。『姓氏録〈河内国神別〉』に、栗栖連は、ニギハヤヒ(饒速日命)の子ウマシマチの後孫とあり、現在の祭神と関係がありますが、栗栖首は王仁の後孫、栗栖直は阿智王の後孫といわれています。昔は、それぞれに氏神(祖先を祀る神社)をもっていたのでしょうが、明治44(1941)の神社合祀策によって、付近のそれぞれの神社が栗栖神社に合祀され、八尾神社と改称されたのでしょう。

 

  wanihaiku-0019.JPG

土塔

| | コメント(0) | トラックバック(0)

初夏土塔

   瓦の壇に

       行基知る

 

行基菩薩の生まれた家原寺の近くには、行基様がつくった四十九院の一つだった大野寺があり、大野寺土塔があって土塔町となっていいます。土塔というのはお墓のことですが、瓦を一枚一枚積み上げて、ピラミッドのように造り上げています。その瓦一枚一枚に、その瓦を寄贈した民衆の名前が刻まれているということが、出土した瓦から分かりました。土塔の人名瓦として世に有名になりました。民衆の絶大な支持を受けた行基菩薩は、時の権力者である藤原不比等らに大きな不安を与え、一時期、弾圧も加えられましたが、そうした弾圧にも屈せず、寺院を作り、橋を架け、布施屋を立て、そして土塔も作りました。土塔は、一辺が五四メートル余の土山で、方形の古墳と見る学者もいましたが、実は大野寺の塔婆(供養追善のため墓に立てる、上部を塔形にした細長い板。梵字・経文・戒名などを記す。板塔婆)として築かれたものでした。民衆とともに活動した行基菩薩の土のにおいのする貴重な遺跡だといわれています。

 

wanihaiku-0018.JPG

飛鳥戸の

    祭祀終え王仁

           すすき愛づ

 

『日本書紀〈雄略紀〉』は、「飛鳥戸郡の人田辺史伯孫の女は古市郡の人である書首加竜の妻である」と記しています。書首は王仁の子孫で、田辺史も渡来人といわれていますから、渡来人同士の結婚であったということです。飛鳥戸神社のある飛鳥(asu-ka)の地は、近つ飛鳥と称される地で、現在の大阪府東部一帯を占めています。そこには応神天皇陵を代表とする大きな古墳群の集中地で,4世紀末から5世紀頃の王朝の中心地とみられています。さわやかな秋の休日、その飛鳥戸神社に参拝し、祭祀(チェサ)にも参加させていただきました。現在の祭神は素戔鳴尊ですが、実際は百済武寧王の父といわれる昆伎王ということです。村人もそう思っていて、渡来人の子孫だと語っていたのが印象的でした。そのあと、近くにある観音塚古墳のある丘に登りました。すすきが太陽に反射してまぶしい日でした。

 

  wanihaiku-0017.JPG

家原寺の

    行基像回りし

             夏祈る

 

家原寺は、王仁の子孫の行基が生まれた所といわれています。15歳で薬師寺に入り法相宗の経典を修め、師匠の道昭とともに全国をめぐりました。その時、いたるところで民衆の困窮を見たのでしょうか。多くのお寺を建て、救済施設の布施屋も建てました。そうした活動が、民衆の絶大な支持を受け、慕われました。そのような偉大な方が、最近は最澄とか空海の陰に隠れて、ややもすると忘れられているようで寂しい気がします。しかし、行基像の回りを回りながら一生懸命お祈りする親子の姿をみて、行基の慈悲が今も生きていることを実感しました。

 

wanihaiku-0016.JPG

王仁子孫

          秋の宴や

                    長瀬川

 

八尾市を貫流する長瀬川はその昔、博多川と呼ばれていました。その博多川で、王仁の子孫の葛井、船、津、文、武生、蔵の6氏族の男女230人が歌垣をして、孝謙女帝を慰めたと『続日本紀』は伝えています。770年(宝亀元年)のことで、その模様は「青色の衣を着て、紅色の紐をたらし、男女2列に並んで、乙女らが男に立ち添い・・・清くさやけし博多川」というもので、優雅で少しばかりお色気も感じられます。今でいうフォークダンスのような感じでしょうか。王仁子孫の繁栄ぶりがうかがわれます。

 

wanihaiku-0015.JPG

墳飾る

       津堂の城山

                    花しょうぶ

 

津堂城山古墳は「津連の祖辰孫王等を祭る」といわれています。辰孫王は王仁博士のことですから、津氏の祖先を祭る廟堂があったのでしょう。古墳の頂にある津堂八幡神社の祭神は品陀和気命(=誉田別命、ほむたわけのみこと)、つまり応神天皇です。王仁博士と応神天皇が深い関係、もしくは同一人物の可能性を秘める古墳ではないでしょうか。その古墳を花しょうぶが色鮮やかに取り囲んでいました。

 

  wanihaiku-0014-1.JPG

新緑や

      論語教えし

                   王仁聖堂

 

王仁聖堂の跡は、松原市にあり、横は清堂池です。清堂池はその昔、聖堂池と書かれていたそうです。その聖堂池も王仁一族がほった池なのでしょう。そして、その横に聖堂を建て、王仁博士が将来した論語と千字文を、子孫代々、教えたものと思われます。そこでは新緑をかぎながら、元気な素読の声が、その近くを通る竹内街道にまで聞こえたことでしょう。

 

  wanihaiku-0014.JPG

 

 

アジサイを

           知るや誉田の

                            渡来人

 

誉田(こんだ)八幡宮は応神陵に隣接しています。応神天皇は誉田別尊(ほむたわけのみこと)という名前ですから、誉田宮(ほむたのみや)と称してもいいと思います。境内には、当宗(まさむね)神社も合祀されており、当宗忌寸(まさむねのいみき)の子孫に宇多天皇(在位887 897)の祖母がおります。当宗忌寸の祖神は王仁博士と同時期に楽浪郡から渡来した山陽公といわれています。そうした渡来人もその昔、アジサイを鑑賞したのでしょうか。

 

  wanihaiku-0013.JPG

装新た

      大津神社に

                    風薫る

 

大津神社の近くに、古代にあっては「古市大溝」という人工の水路が流れていたといいます。「大津」と命名されたからには、地域の中心となる大きな賑わった船着きの港であったのでしょう。そこは王仁博士の子孫、津氏の支配地でした。最近になって、大津神社の整備が急ピッチで進められています。数年前の装いが一変して、新しくなっています。その境内にも風が古代の様子を運んでくれるようです。

 

wanihaiku-0012.JPG

王仁語り

        建碑助ける

                      魂花火

 

猪飼野は、仁徳天皇が開発した土地です。その仁徳天皇の即位を祝して、王仁博士は「咲くやこの花 冬ごもり・・・」という有名な「難波津の歌」を詠みました。上田先生は720日、生野区民センターで、その王仁博士に関する有意義な講演をなされ、「難波津の歌」ハングル建碑の大きな助けとなりました。感謝の意をこめて詠んでみました。魂(たま)は上田先生に教えられた言葉です。魂(たましい)は魂(たま)が正しい用法だと。先生の講演は、その魂(たま)が花火のように打ち上げられた美しい内容でした。

 

wanihaiku-0011.JPG

猪飼野の

         夏の祭りぞ

                      王仁知るや

 

猪飼野は、仁徳天皇が開発した土地です。その仁徳天皇の即位を祝して、王仁博士は「咲くやこの花 冬ごもり・・・」という有名な「難波津の歌」を詠みました。その猪飼野の土地で、仁徳天皇をお祭りする御幸森天神宮の夏祭りが行われました。その夏まつりを、王仁博士も知れば、きっと喜んでくれることでしょう。

 

  wanihaiku-0010.JPG

国分の山

          王仁の子孫も

                          若葉愛づ

 

国分神社の祭神である飛鳥大神は「この地の文化開発者として功あるにより祀られる」とあります。王仁博士にふさわしい言葉だと思います。その国分神社は松岳山に抱かれ、江戸時代に発掘された松岳山古墳は、朝鮮式積石塚形式の前方後円墳です。また、近くの茶臼山からは船氏の墓誌も発掘されました。王仁一族の子孫が繁栄していた様子が窺われます。そうした王仁の子孫も、若葉を愛し、憩いのひと時を楽しんでいたのでしょうか。

 

  wanihaiku-009.JPG

野中寺の             

            郷の青葉か

       石人像

 

王仁博士の子孫である船氏の氏寺であった野中寺。その境内には、朝鮮石人像も安置されています。墳墓の周りにあって王や貴人を守護していたのでしょう。その石人像はきっと故郷の墳墓に帰りたいと願っているはずです。その故郷の青葉を偲びつつ、野中寺での安置を耐え忍んでいるのでしょうか。

wanihaiku-008.JPG

チョゴリ着た

           王仁に伝えて

                          高津のセミ

 

韓服の始まりは高句麗時代といわれていますが、王仁博士が生きていた頃はまだ、今のようなチョゴリではなかっと思いますが、その後の朝鮮ではチョゴリが民族服となりました。そのチョゴリを着ました。その姿を王仁博士にも知って貰いたいと。その気持ちを、高津宮で夏を告げるように鳴くセミに託してみました。

 

wanihaiku-007.JPG

 

 

葛井寺

       王仁香身に受け

                              新緑かぐ

 

王仁博士を始祖とする葛井(ふじい)氏が725年に建立し、氏寺として栄えました。駅前商店街はその門前町で、現在の藤井寺市は「葛」が「藤」に変わった地名です。本殿前の線香の香りを身に受けますと、王仁博士が偲ばれ、境内の新緑も色あざやかでした。

 

 

wanihaiku-006.JPG 

 

辛国の

        いにしえ偲び

                         青葉はゆ

 

「辛国(からくに)」は、もと「韓国(からくに)」と表記されていたものだといいます。その「韓国(からくに)」は、檀君朝鮮(古朝鮮)の文化を継承した三韓、すなわち辰韓(真韓)、弁韓(番韓)、馬韓(慕韓)の三韓のことで、辰韓は新羅に、弁韓は伽耶諸国に、馬韓は百済になったといわれています。そうした昔にも青葉が、まぶしいように映えていたのでしょうか。

 

 

wanihaiku-005.JPG 

礎石にぞ

        渡来の薫風

                     西琳寺

 

かつては巨大な寺院だっといわれる西琳寺。その地一帯を支配したであろう王仁博士の子孫、西文氏(かわちのふみし)の氏寺としその栄華を誇ったのでしょう。その遺跡が、日本一大きな礎石で、百済式伽藍の礎石だといわれています。その思いを込めて詠んでみました。

 

 

wanihaiku-004.JPG 

若葉匂う

       白鳥祠

             王仁墳か

 

ヤマトタケル(日本武尊)は、死して白鳥に化し飛んでいったと日本書紀に記されています。白鳥神社は、そのヤマトタケルを祭神にしていますが、ヤマトタケル伝説は、史実でないというのが定説です。

白鳥神社は古墳の上に鎮座しているということで、近くに西文氏の氏寺である西琳寺がありますから、白鳥神社ももとは西文氏の氏神と考えるのが自然だと思います。

 

  wanihaiku-003.JPG

新緑の
       美具久留御魂
                     王仁の霊



王仁池の近くに鎮座する美具久留御魂(ミグクルミタマ)神社は、裏山が御神体(ごしんたい)ということです。新緑がまぶしいそこには、きっと王仁博士の霊が眠っているものと信じ、詠んでみました。
子孫の方々も、その地で繁栄したのでしょう。江戸時代には朝鮮通信使の絵馬も掲げられ、今も現存しているということです。


wanihaiku-002.JPG

王仁池の
       入植の血と汗
                    青葉もゆ



王仁一族が、この地に入植して、池をほったことが日本書紀に記されていますが、その時は、汗を流し、時には事故もあったと想像されます。
そのような池に、青葉が、千年、二千年の昔と変わらずに、萌えている情景を詠んでみました。


wanihaiku-001.JPG


アーカイブリスト

2012年10月

  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
  • 444net
  • 444net

このアーカイブについて

このページには、2010年4月以降に書かれたブログ記事のうち王仁俳句カテゴリに属しているものが含まれています。

次のアーカイブは王仁俳句: 2012年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。