何語る
隅田の鏡や
彼岸花
JR和歌山線隅田駅から歩いて五、六分の所に鎮座する隅田八幡宮は付近の名祠とされ、所蔵している人物画像鏡は国宝に指定され、銘文は、日本最古の金石文で、いろいろな史書に紹介されています。現在は東京博物館に収蔵されているということですが、「癸未年八月日十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、県開中費直、穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟」と刻され、「大王の御代の癸未の年八月、男弟王(いろどおう)が意柴沙加宮(忍坂宮 おしさかのみや)にいませしとき、斯麻(男弟王の臣)が大王の長寿を祈って、開中費直(河内直)と穢人の今州利の二人をつかわして、白上銅二〇〇旱をとってこの鏡をつくる」というものだそうです。
銘文中の「斯麻」は百済武寧王(在位501~423年)、日十大王は仁賢帝、男弟王は継体帝、「開中費直」は「かむちのあたい」で、「河内直(かわちのあたい)」とされています。河内直(かわちのあたい)は、王仁博士を始祖とする河内の文氏の一族と見られていますが、『新撰姓氏録〈河内国諸蕃〉』に「河内連、百済国都慕王男、陰太貴首王より出づるもの也」とあります。都慕王は、高句麗の始祖・朱蒙(王)で、『三国史記〈百済本紀〉』冒頭に「百済の始祖は温祚王で かれの父親は鄒牟あるいは朱蒙という」とありますから、都慕の子の陰太貴首王は、百済の始祖・温祚王に比定できます。ということになりますと、河内直は温祚百済の宗主の血筋を引く家柄となり、王仁一族と百済王家は同一血族となりますが、婚姻か何か関係で結ばれていたのでしょうか。
ところで、隅田八幡宮の由緒書には、神功皇后が三韓征討の帰途、このの地に休憩したので、応神帝のときにこの地に祠を建てた、記されていますが、金達寿さんは「こういった神社の〈由緒〉のあてにならないものであることはいうまでもない。しかしそれにしても、これなどは史実をまったく無視した、あまりにもひどいものといわなくてはならないであろう」と言っています。