古代ロマン塾でタグ「王仁博士」が付けられているもの

善正寺

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王仁の魂

  今は宅地に

      迷う秋


 津氏の氏寺であったという善正寺(ぜんしょうじ)は、天武・持統帝の白鳳時代に建てられましたが、平安初期に全焼し、以後、廃寺となったそうです。近鉄藤井寺駅でおり、左手に仲哀陵をみて、二〇分ほど歩くと野中寺に出ます。野中寺からさらに住宅街のバス道路を一〇分ほど登ると、羽曳山住宅前というバス停の交差点に出ます。その交差点を左に折れて、一〇メートルほど行くと、道路沿いに二枚の立て看板が目に入ります。一つは横長のアズキ色で、道路沿いの表には「寺山」の案内、歩道側の裏には「善正寺跡」の案内、もう一つは真四角の白色で屋根がついていて「埴生廃寺(善正寺)址」の案内がしてありました。

 「我らの祖である葛井・船・津の三氏の墓地は河内国丹比郡にある野中寺の南にあって寺山といい、子孫が代々守りつづけているが、最近、木こりが出入りして、木を伐採しているため、祖先の御霊がおちつけない状態である。どうか禁じてほしい」という上奏文が『続日本紀』に掲載されています。この上奏文を朝廷に出したのは、津氏の流れをくむ菅野真道で、延暦18年(799九)のことです。ということになれば、善正寺跡は、王仁一族の共同墓地ということになり、寺山と呼ばれていたことがわかります。その寺山の丘陵は、風水易による「吉(よ)き葬地」で、緑の墳丘が連なり、さぞかし壮麗であったろうと思われます。かつては埴生野と呼ばれていたその地も、宅地開発が急ピッチで進み、昔は木こりに荒らされた地は、今は宅建業者に荒らされ、王仁一族の霊は安寧の地もないということでしょうか。

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伽羅橋

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伽羅橋に

  王仁香残るや

     残暑かな


 日本で最も短いといわれる南海電鉄高師浜線は、羽衣駅、伽羅橋駅、高志浜駅の三つで、羽衣駅が始発ですから実際は二つの駅しかありません。残暑厳しいなか、その一つ目の伽羅橋駅でおりました。伽羅は、加羅諸国の加羅と同じだから、「から」と読むのだろうと思っていましたが、駅名には「きゃら」となっていました。

 その伽羅(きゃら)を辞書で引いてみますと、梵語の多伽羅(たがら)という語の略とされ、香木のなかでも最も珍重された〝香り〟の天然香料の沈香(じんこう)だということです。伽羅橋駅前にある「大雄寺由緒」の説明に、千貫橋とも伽羅橋とも呼び大雄寺門前にあたる橋(芦田川)であったといい、またある人が「この橋板が沈香という香木で鎧(よろい)千貫の価値があったという」とありました。伽羅橋駅前はその昔、大雄寺という寺の境内で、建立されたのは14世紀の南北朝ということです。

 金達寿さんは、「本町羽衣領の芦田川に架せる旧伽羅橋は、当時伽羅国人の日本を頼って来た者此の附近に居住し此の橋を造った事に依り、国名をそのまま橋の名称としたのである。同国人の居住は其の後、百済人移住帰化したものと同様、海運の便良き地を選んで卜定したのであろう」と紹介しています。であれば、伽羅は、加羅、つまり「から」と読んでしかるべきで、どうして「きゃら」になったのか、はなはだ不思議な現象ですね。

 伽羅人が渡来してきたことは公然の秘密のようなもので、隣接地が高師浜という地名であってみれば、伽羅人のなかに王仁博士の一族、子孫も含めて、居住していたのではないでしょうか。



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金葵

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王仁子孫

  造りし地酒

     抱く冬

済州島は韓国で唯一のミカン栽培地だが、そのミカンの親は有田ミカンです。その有田ミカンで有名な和歌山県有田郡有田川町で酒造業を営む平松本家のご主人は王仁博士の子孫であるという金達寿さんの著書を手がかりに、冬のある日、有田川町の平松本家を訪問しました。出てきたのは八〇を超すと思われる老婦人で、「王仁博士の子孫であるということが記されている石灯籠があると本に載っているのですが」と尋ねると、「えっ、ああ、ちょっと待ってくださいよ」ということで、しばらくして出てきたのは、五〇くらいのご主人でした。

 「金達寿さんという方が、ご主人に案内されて、王仁博士ゆかりの石灯籠を見せてもらったということですが・・・」「ああ、それは、先代のことです。私はよくわかりませんが、石灯籠はありますよ」といって、愛想良く案内してくれた。たしかに「吾祖高志之臣(あがそこしのおみ)」と刻されていました。高志神社が、藤並神社に合祀された際の記念に明治四十二年(1909)建立されたものでした。高志氏族の子孫である平松本家は町の旧家で、「金葵(きんあおい)」や「宗祇(そうぎほまれ)」というお酒の醸造元で知られ、高志氏は、王仁博士の子孫で、かの有名な行基菩薩を輩出しています。

 買い求めた「金葵」と「宗祇誉」を抱きしめて、王仁博士を偲び、ご主人と記念撮影をしました。子孫がお造りになったお酒の味は、まだ賞味していませんが、後の楽しみにして、いましばらくは封を切らずにおいておきます。


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長瀬川

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王仁子孫

          秋の宴や

                    長瀬川

 

八尾市を貫流する長瀬川はその昔、博多川と呼ばれていました。その博多川で、王仁の子孫の葛井、船、津、文、武生、蔵の6氏族の男女230人が歌垣をして、孝謙女帝を慰めたと『続日本紀』は伝えています。770年(宝亀元年)のことで、その模様は「青色の衣を着て、紅色の紐をたらし、男女2列に並んで、乙女らが男に立ち添い・・・清くさやけし博多川」というもので、優雅で少しばかりお色気も感じられます。今でいうフォークダンスのような感じでしょうか。王仁子孫の繁栄ぶりがうかがわれます。

 

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アーカイブリスト

2018年9月

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